3.05.2009

「ウォッチメン」原作コミック解説(1) CHAPTER 1 [P1~P12]

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『ウォッチメン』は、1986年から87年にかけて12冊のマクシシリーズとして発売され、各話の扉にはその際の各号の表紙が流用されている(各話の最後の時計が大写しになっているページが、各号の裏表紙である)。
それぞれの表紙は、本編1ページ目の1コマ目につながるようになっており、その意味では表紙が実質的な1ページ目だとも言える。このような構成は当時としては珍しいものであり、『ウォッチメン』の革新性を示す要素の一つともなっていた。
ちなみにマクシシリーズとは、連載回数を限定したミニシリーズ(TVドラマから発生した概念で、無期限連載を基本とするレギュラーシリーズとの差別化の意味で、こう呼ばれるようになった)の一種で、DCコミックスは、本作のような12話構成など、連載回数が長いミニシリーズを特にこう呼んだ。


原書Watchmen #1 表紙

扉に描かれている時計は、アメリカの科学誌『原子力科学者会報』の表紙に描かれた時計、通称ドームズデイ・クロック(破滅時計あるいは世界終末時計)を模したもので、核戦争勃発の可能性を時刻の形で表している(0時が核戦争勃発の時刻である)。破滅時計は、各号の表紙とコミックスの最後のページに描かれ、1号で11時48分からスタートし、最終話最終ページの0時に向かって1分刻みに進んでいく。
実際の『原子力~』誌の時計は毎年の新年号の表紙に掲載され、その時々の世界情勢により随時変更される。ちなみに、過去、もっとも針が0時に近づいたのは、米ソが水爆実験に成功した1953年で、2分前まで針が進んだ。また1981年には、米ソの軍拡競争を受けて7分前から4分前となり、1984年には、軍拡競争の激化から3分前となっていた。『ウォッチメン』が書かれた1980年代前半は、50年代以来の逼迫した状況にあったのである。


ドゥームズデイ・クロック(映画版より)


ピースマークについた血痕は、平和の象徴であるピースマークが血塗られているという、本作の根底に流れるシニカルな感覚を象徴しているが、血痕の角度は、破滅時計の分針を連想させる。このパターンは、この後、劇中で幾度も繰り返されることになる。パターンの繰り返しという手法は、ムーアが尊敬する作家ウィリアム・S・バロウズが、唯一手掛けたコミックス『アンスピーカブル・Mr.ハート』で見せた手法であるといい、ムーアのバロウズへの傾倒ぶりが伺える。

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PANEL4

トルーマン:ハリー・S・トルーマン(1884~1972)。第33代合衆国大統領。民主党所属。上院議員時代、軍事費の不正使用を追及して名声を獲得した後、1944年の大統領選挙で時のフランクリン・ルーズベルト大統領に請われて副大統領の座に就いた(ちなみにルーズベルトは4選目)。
明くる45年4月、フランクリン・ルーズベルト大統領の死去に伴い、大統領に昇格。広島、長崎への原爆投下を決行し、第二次世界大戦を終結させた。原爆投下決定の裏には、米軍の戦傷者を減らし、戦争の早期終結を図るという名目の裏に、戦後の対ソビエト戦略の一環という目的があったとされ、事実、戦後は共産主義封じ込め政策トルーマン・ドクトリンを軸に冷戦外交を展開した。また、戦争で疲弊した欧州に対してはマーシャルプランを持って復興を援助。世界のリーダーとしての地位を確立した。国内においては、陸海空軍を統合する統合参謀本部、総合的情報収集を目的とする中央情報局(CIA)、国家安全保障担当閣僚を集めた国家安全保障会議の設立と、大統領権限の拡大に邁進し、行政の中央集権化を進めた。
1948年に再選を果たしたトルーマンは、1950年に勃発した朝鮮戦争に介入するも、中国の参画により戦争は長期化。人気の低下を悟った彼は、1953年の任期満了をもって、政治の表舞台から退いた。

PANEL5
画面左側のトラックは、ピラミッド宅配社のもの。P450のムーアの脚本によれば、トラックは画面上から下に向かうように指示されているが、それでは左側通行になってしまい、右側通行のアメリカの交通法規とは逆になってしまう。
実際の作品では、右側通行に修正されているが、日本と並ぶ数少ない左側通行採用国であるイギリス在住のムーアならではのミスだろう。

PANEL7
路上の車が、空気力学を意識したような曲線形をしているのに注目。現在の目から見ると、それほど奇異には感じられないが、本作の発表当時はまだまだ、車と言えば四角のイメージが主流だった。
これら、現実との"ちょっとした"違いは、作品世界が"もう一つ"の1985年であることを読者に直感させるための仕掛けであり、以後、劇中のあちこちに様々な形で顔を出してくる。

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PANEL1

ファイン刑事が吸っている煙草は、おなじみの紙巻煙草であるが、作品世界においては、煙草はガラス・パイプに入れて炙るスタイルが一般的であり(恐らくはDR.マンハッタンの発明によるもので、健康への影響も少ないものと思われる)、旧来の紙巻煙草は少数派になっているものと思われる。

手前の制服警官の耳に注目。イヤホン型の通信機か。

作品世界の革靴は、靴紐ではなく、くるぶしのゴム(?)で締めるのが一般的なようだ。

PANEL6
そのいびつな巻き方から、ファイン刑事の吸っている煙草は手巻きだと推測される。

PANEL8
副大統領のフォード:ジェラルド・フォード(1913~2006)。第38代合衆国大統領。共和党所属。ドナルド・ラムズフェルドらとともに下院議員として頭角を現した彼は、公民権法の推進に尽力し、1973年、時のニクソン政権の副大統領に指名された(前副大統領のスピロ・アグニューが収賄罪容疑で辞任したため)。しかし就任間もない1974年、ウォーターゲート事件のあおりでニクソンが辞任。替わって大統領の座に就いた。
しかし、ニクソンの弁護に終始し恩赦を与えたため、国民の人気は急落。1976年の選挙では、民主党のジミー・カーターに敗れた。
コメディアンがウォーターゲート事件を握りつぶした作品世界では、12年を経た今なおニクソンの副大統領を務めている。劇中では腰抜け呼ばわりされているが、実際、ニクソン擁護の姿勢から彼の腰巾着視されることも多く、存在感を示すことはできなかった。

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PANEL3

顎から垂れた血が、おなじみのパターンを作り出そうとしている。

PANEL6
エレベーターの男性が被っている奇妙な帽子あるいはヘルメットに注目。

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PANEL1

KT28:架空の麻薬。KTと略すこともある。KTとは"Knot Top(チョンマゲ)"の略。

エレベーターの表示に注目。1階がGround Floorの頭文字の"G"、2階が"2"となっているが、実際のアメリカ式の表示では1階は1st Floorなので"1"となる。
Ground Floorというのは、いわゆる"1階"のイギリス式の呼び方だが、イギリス式では、1階が"G"(Ground Floor)、2階が"1"(1st Floor)、3階が"2"(2nd Floor)となるため、作品世界のエレベーターの表示は米英が混ざった方式ということになる。

PANEL2
ブレイクの転落を描いた三つのコマは、つながった一枚画として描かれている。

PANEL3
ベトナム、51番目の州に:1971年にベトナム戦争に勝利したアメリカは、14年をかけてベトナムを自国に併合した。現実では、アメリカは73年にベトナムから全面撤退。合衆国史上、初の敗戦となった。その後も南北ベトナムの戦闘は続いたものの、75年に北ベトナムの勝利に終った。
なお、アメリカが他国を併合した例としては、ハワイ共和国が1898年にアメリカの準州となり、1959年に50番目の州に昇格した例がある。

黒の船、パイレーツ、X-シップ:いずれも作品用に創造されたコミックス。作品世界では、海賊物のコミックスが主流となっており、スーパーヒーロー物が大半を占める現実とは大きく異なっている。
現実においては、1950年代初頭に一時的な海賊物コミックスのブームがあったが、一つのジャンルとして定着するまでには至っていない。なお、『X-シップ』という他と趣が大きく異なるタイトルは、当時(今も)、圧倒的人気を誇っていたマーヴルコミックスのX-メンシリーズにちなんだものと思われる。


「黒の船」オリジナルアニメDVDは映画公開時に発売になる(日本での発売は不明)。


PANEL5
ガンガ・ダイナー:作品世界の人気ファーストフード・チェーン。創業者は、大規模な飢饉で難民となりアメリカに渡ったインド人であり、料理もタンドリー・チキンなど、インド料理がメインとなっている。なおガンガとは、インドを代表する大河ガンジス川を神格化した女神の名前である。

電気タクシーの初乗り料金が、わずか25セントであることに注目。当時の実際の初乗り料金が1ドル10セントだったことからも、破格の安さだといえる。現実に25セントだったのは、1950年代初頭である。

二人の刑事の左側、新聞スタンドの前に停めてあるパトカーは、ボークイン刑事がアパートの上から下を見下ろしている時からそこに停まっていたが(P7 PANEL7参照。屋根にPolis Departmentの頭文字"PD"が書いてある)、二人が乗らずに歩き続けていることから、現場を警備していた制服警官たちが乗ってきたものと思われる。ただし、11話で二人が同じようなパトカーに乗っていること、ちょうど時刻が正午すぎであることを考えると、車はやはり二人のもので、署に戻る前にガンガ・ダイナーあたりで腹ごしらえをするつもりなのかもしれない。

奇妙なサングラス(X-メンのサイクロップスを思わせる)をかけてチョンマゲを結った若者に、身なりのいい親子が奇異の目を向けている。

PANEL8
刑事たちとすれ違うコバックス。P7では、ブレイクのアパートから車道に向かって右側から左向きに歩いていたが、アパートの玄関、新聞スタンドの位置から判断すると、ここでは逆向きに歩いていることがわかる。P7からの経過時間を考えると、ブレイクの転落現場を何度も往復していたと思われる。

<P11>
PANEL1

メルトダウン:架空のキャンディの銘柄。炉心溶融とは、何とも物騒な名前である。上空の飛行船は、作品世界の最もポピュラーな長距離移動手段である。

視点は前のコマと変わっておらず、コバックスがいた位置にロールシャッハがいることから、その正体を暗示していたとも考えられる。

ピースマークを連想させる満月に注目。『ウォッチメン』に登場する月は日にちにかかわらず常に満月である。1985年10月12日以降で実際に満月だったのは、10月29日のみ。

PANEL3
バッジを拾うロールシャッハ。コバックスだった時点でも拾うことはできたはずだが、本格的な捜査はロールシャッハの仕事ということか。

<P12>
PANEL1

鑑識作業が終ったのか、P8 PANEL1では床に落ちていた女性の絵が机に立てかけられており、椅子も片付けられている。
なお、女性の絵には乳首が描かれているが、DCコミックスの出版物で乳首が描かれたのは、恐らくこれが2度目である。アメリカで一般販売されるコミックスは、基本的に全米コミックスマガジン協会の審査を受ける必要がある。審査の基準となるコミックスコードは1954年に制定されたもので、当時、流行していたホラー物、犯罪物のコミックスの描写が過激すぎるとの批判を受けて、業界自身が自発的に設けたものである。
50年代初頭、第二次大戦中に流行したスーパーヒーロー物はほぼ壊滅状態にあったが(残ったのは、スーパーマン、バットマン&ロビン、ワンダーウーマン、スーパーボーイだけだった)、業界自体は最盛期にあり、様々なジャンルのコミックスが発行されていた。その中でホラー、犯罪物は、あくまでも青年向けの位置づけにあったが、赤狩りに代表されるように何事にも過敏になっていた当時のアメリカ社会は過剰反応し、コミックス排斥運動にまで発展した。
この事態を受けコミックス業界は自主的にコミックスコードを制定し、ホラー、犯罪物コミックスの販売を中止することで、世間の批判をかわそうとしたのである(コードの制定で実害を被ったのは、ホラー、犯罪物のタイトルだけで、ヒーロー物やギャグ、西部劇など、大半の作品には大きな変化はなかったが、ホラー、犯罪物の売上はコミックス全体の四分の一を占めていたといい、それらが一掃された影響は極めて大きかった)。
コミックスコードには、犯罪描写、暴力描写に関する極めて厳しい制限があったが、性描写に関しても同様だった。セックスを連想させる描写の禁止や一切のヌード描写の禁止など、およそ性的なものを排除する内容となっていたが、そもそもキリスト教国であるアメリカは性表現には一際厳しく、コード制定前からヌードが描かれることは皆無だった。2話で登場したようなポルノコミックも存在したが、それらは非合法な出版物であり、まっとうな出版社が発売するものではなかったのである。
コミックスコードの規制はその後も続き、長く業界を支配したが、80年代に入ると状況が変化しはじめた。コードの規制対象は、新聞スタンドや薬局、駅の売店など、一般の目に触れる売り場で売られるコミックスであったが、当時、増え始めていたコミックショップはその対象外とされたため、ショップ限定発売のコミックスならば、コードの規制を受けない作品作りが可能となったのである(売れ残りが返品される通常の売店と異なり、コミックショップは買い切りである点も出版社には魅力だった)。
ダイレクトマーケットと称されるこの新たな販売形態に反応したDCコミックスは、1982年のSFコミック『キャメロット3000』で参入。以後、ダイレクトマーケット向けタイトルを増やしていき、『ウォッチメン』もその一環として発売された(コードの規制を受けている作品は、表紙に"コミックスコード承認済"のラベルが印刷されているのですぐに判別できる)ダイレクトマーケット向けの作品はコミックスコードの規制を受けないとはいえ、性描写に厳しい社会的風潮は変わっていなかったため、女性のヌードが描かれることは滅多になかった。
『ウォッチメン』にしても、DR.マンハッタンの性器は頻繁に描写されるものの、シルク・スペクターの乳首が登場するのはわずかに2回だけである。この傾向は現在もさほど変わってはおらず、日本のマンガ輸出の障害ともなっている(日本では少年誌でも、いわゆる"読者サービス"は珍しくなく、アメリカでも明確な年齢制限がある映画ではそういったサービスカットが少なくないが、ことコミックスにおいては、子供の読み物という先入観があるためか、制限が厳しい。ちなみに、性描写が売り物の"エロマンガ"の類も存在はするが、それらは完全なアダルトグッズとして扱われている。日本で言えば、"AV"の感覚か)。
ちなみにDCコミックスの、いわゆる"コミックブック"で初めて女性の乳首をはっきりと描写したのは、『ウォッチメン』の約1年前の1985年2月に発売された『ニュー・ティーン・タイタンズ』#8である。当時、DCで一番の人気を誇っていたタイタンズは、高級紙を使用した『ニュー・ティーン・タイタンズ』と普通紙を使用した『テールズ・オブ・ティーン・タイタンズ』の2誌が発売されており、『ニュー~』誌はダイレクトマーケット向け作品だった。#8の劇中には古代ギリシャの巨神族タイタンズが登場するシーンがあり、そこで海の女神テテュスが乳首を露出していたのである。
ところで、当時の『ニュー~』誌は、1年後に販売される『テールズ~』誌でリプリントされることになっており、コードの規制を受ける『テールズ~』誌で件のシーンがどうなるのか懸念されたが(該当の号は#67)、何の問題もなくそのまま掲載された(もちろん承認ラベル付で)。リプリントということで審査官が油断していたかもしれないが、コミックスコード承認済の作品で乳首が描写されたのは、後にも先にもこの一例だけであろう。


(左)コミックスコード導入前の犯罪コミック。(右)コミックスコード。コミック表紙の隅の方に付けられる。現在はコードを廃止したコミックも多い


ロールシャッハの右足の後ろに見えているドームは、作品世界のニューヨークの特徴的な建築物であるジオデシック・ドームの一つ。

TEXT BY 石川裕人